雨を待つ丘
 丘の上にたつ大樹は、強い風にあおられてさらさらと心地よい音をたてた。
 葉ずれの音に誘われるように、有希は閉じていた瞳を開いた。木陰に寝転がったままの彼女の髪も、風に揺れた。
 風に乗って届くのは、彼女の母、菜摘を弔う鐘の音。
 から、ころ、と。近くで聞けば荘厳なその音色も、離れた場所で聞けばずいぶんと安っぽい。見上げた空が青く澄んでいるのを見れば、なおさらそれが軽く聞こえて、有希は再び目を閉じた。
 水の集落に集う魔法使いが死ぬと雨が降る。天に召された魔法使いの力が地に戻る時、この場所では雨という形をとるのだという。それは言い伝えや迷信などではない現実だ。
 だからこの集落では、鐘の音は雨を知らせるためのものでもあるのに。
 空は青い。
「有希! ゆーきぃー!」
 呼ぶ声にため息をひとつおとして、有希は体を起こした。
 振り返れば、伯母の亜衣花が道を上がってくるところだった。
「やっぱりここにいたのね」
 隠れるつもりもなかったし、占い師を営む彼女から隠れられるはずもなかったが、それでもため息は零れたし、表情も強張ったままだっただろう。その有希を見て、亜衣花はやさしく目を細めた。
「あんたは落ち込んだらここに来るんだから」
 母親代わりの彼女にとってみれば、有希がここにいることくらいお見通しなのだろう。だから探すのに魔法など使う必要はないのだと、言外にいいおいて、彼女は有希を覗き込んだ。
「いいの?」
 簡潔な問いに黙って頷くと、亜衣花は僅かに表情を曇らせる。それでもかがめていた体を黙って起こした亜衣花の背後から、有希によく似た声が口をはさんだ。
「だめよ、おばさま。ユキったら、一度言い出したら聞かないんだから」
「サチ」
 有希が呼ぶと、沙知は笑みを返した。
 声と、髪と、瞳の色。それらは同じなのに、顔立ちも性格も似つかない、有希の双子の妹。
 沙知は、よいしょ、と小さな掛け声とともに有希の隣に腰を下ろした。同じ目線の高さの沙知に、有希は尋ねた。
「サチ、あんたは、花を?」
「うん。棺に花を」
「そっか」
 魔法使いの棺には花を捧げる。空から地へと、帰ってくるための道標にという祈りを掲げるのだという、その儀式に意味があるのかと。問うのはやめて、有希はただ頷いた。沙知がそれをしたのなら、彼女はそれを信じたということだ。確かめるまでもない。
 けれど自分には、それが未だ確信できない。花の意味ではなく、彼女にそれが必要なのだと。自分の母親が、魔法使いだったと。それを、有希は信じきれないでいる。
 だから、母親の葬儀には出席しなかった。母を弔うことは、心の中で見送ることだと思っていたし、花を捧げるという儀式を強要されることも、またそれを拒むこともいやだった。
 本来なら葬儀を最後まで見届けたいはずの二人が自分を追ってきたのは、おそらくは自分を葬儀に出席させるためなのだと、有希は思う。思いながら、結局いいわけもせず有希はただ大樹の下にうずくまっている。そして沙知も、亜衣花も、何も言わなかった。
 ざぁざぁと揺れる大樹の下で、三人は暫く黙っていた。
「結局、目を覚まさないまま逝っちゃったわね」
 ぽつりと亜衣花が言った。有希に沙知がいたように、亜衣花と亡くなった菜摘は双子だった。
 有希たちを産んだ直後から眠ったまま目覚めることなく、15年目の春に菜摘は死んだ。眠り病だとも呪いだとも言われたけれど、真相はわからなかった。自身も二人の子どもを持ちながら、有希たちを育ててくれた亜衣花が、今はもしかしたら一番辛いのかもしれない。
「夏実」
 菜摘のことを、人とは異なる呼び方で亜衣花は呼ぶ。近しい血を持つものしか呼ぶことを許されない魔法使いの本当の名前。本来なら初めに母親が子供に与える、願いを込めたそれ。いつかは菜摘が目覚めて、自分たちを本当の名前で呼んでくれる日がくると、幼いころは有希も信じていた気がする。
 けれど結局有希も沙知も、一度も菜摘にその名で呼ばれることはなかった。母親から、一番はじめに与えるはずの魔法を、与えられる機会は永遠に失われたことになる。
「…先に帰ってるわ。あんたたちも、早く帰りなさいよ」
 強い雨が降るから。そう言って、亜衣花は背を向けた。泣いているのかもしれなかった。
   亜衣花おばさん!」
 けれどたまらず呼びかけた有希に、振り返った亜衣花の瞳は濡れてはいなかった。ただ優しく穏やかに見つめる瞳に、有希は自分のほうがもしかしたら泣きそうなのかもしれないと思う。
「雨、降ると思う?」
「降るに決まってるじゃないの」
 魔法使いが死んだら、雨が降るのよ。
 あっさりと言い切って、亜衣花は背を向けた。もう振り返らなかった。


 から、ころ。鐘の音は続いている。
「酔狂なものよね。あの人と話したことがある人なんて、殆どいないはずなのに」
 双子の姉である亜衣花を訪ねて菜摘がこの集落にたどりついてから、二人を産み落とし眠りにつくまで、ほんの数時間しかなかったと聞いている。集落の者達から見ればほとんどよそ者だったろうに、葬儀の間鳴らされる鐘の音は途切れない。
「亜衣花おばさん、人望あるから……」
 曖昧に笑って有希が答えると、そうね、と沙知も頷いた。よそ者であるはずの菜摘の、更に娘である自分たちに、けれどこの集落の人達は優しかった。
「あと一年、頑張ってくれればよかったのにな」
 母親の死を、そんなふうに沙知は言った。酷薄なようで、けれど切実な響きの意味を、有希もよくわかる。あと一年、次の春には、二人とも学校を出ることができたから。
 魔法は、学ぶものだとされている。神や精霊の加護を受けて、学ばずとも魔法を行使できるものもこの世界にはいる。けれど大半は人外のものの言葉を聞く事など叶わず、公式や理論を学ぶことで魔法を身につける。その学校を卒業するまであと一年。あと一年で、二人は魔法使いとして生計をたてていくことを許される。……はずだった。
 もちろん、卒業試験で落ちれば、その免許は与えられることはない。それでも、学校を卒業したという肩書きは与えられる。16になれば、魔法使いとしてであるかそうでないかはべつにして、ひとりだちすることを許可される。
「どうする、これから」
「どうするもこうするも…あと一年、亜衣花おばさまにお世話になるしかないんじゃない? ご恩返しはそれからね。立派な魔法使いになって、おばさまにはそれからお返しするしかないと思うけど」
 沙知はあっさりと言う。その答えに、じくりと胸が痛む。
「できると思う?」
「するしかないでしょ。なによ、らしくないわねユキ」
 こん、と軽く頭を小突かれる。たいした力ではなかったが、そのまま有希は倒れ込んだ。仰のいて見上げた空の青さが目に沁みる。
「サチって、普段は心配性なのに、ずいぶん楽観的なのね」
「ユキこそ、普段は無鉄砲なのに、ずいぶん悲観的じゃない」
 その空の色から目を逸らしたくて、有希は瞳を閉じた。瞼に映る日差しが辛くて、両腕で瞼を覆った。それでも容赦なく、日差しは有希の瞳に入り込む。
 悲観的だとか、楽観的だとか。そういうことではない。それくらい有希にもわかっている。
 有希はただ不安なのだ。自分達の母親は、本当に魔法使いだったのか。そして自分たちは、本当に魔法使いなのか。
 魔法は血に宿る。精霊たちは愛した者の血の流れる者を愛する。魔法使いの娘は魔法使いだし、逆もまた然りだ。ただ、魔法使いに生まれたものが、死ぬまで魔法使いであるとは限らない。魔法使いとして生まれたからといって、ずっと魔法を血に宿したままであるとは限らず、一度精霊に見放されれば、もうその者は魔法使いではありえない。
 ならばその娘は。病とも呪いともしれぬ眠りについたまま亡くなった母は、自分たちを産んだそのとき、真に魔法使いであったのか。自分たちに流れる血は、魔法使いのものなのか。
 魔法は学ぶものだ。正しい公式と理論を用いて、魔法使いは魔法を使う。有希も、これまで学んできた魔法ならば平均的に使うことはできる。けれどその魔法が、子供だましであるということも知っているのだ。そんな魔法、魔法使いでなくたって使える。事実有希たちと同じ学校で学ぶ生徒の中には、魔法使いの血をひいておらず、将来魔法使いになるつもりがない者も多かった。裕福な家庭に生まれた子供たちは、ただ特別な知識を習得したという、いわば箔をつけるために、魔法を学ぶ。
 それが悪いとは思わない。けれど有希たちにとっては魔法はそういうものではなかった。
 魔法使い達は結束が固い。大いなる昔、迫害されてきたころから横のつながりを大切にしてきた彼らだからこそ、有希たちは集落で他の子供たちと変わらず育てられてきたのだ。
 有希たちが、魔法使いの娘だから。魔法使いであるはずだから。
    じゃあ、もしも。魔法使いでないなら。
 私たちは、どこへ行けばいい?


「だって、雨なんて、降らないかもしれないじゃない……」
 表情を隠したまま、こらえきれず弱音はこぼれた。同じ立場であるはずの沙知は、黙ってそれを聞いている。
 長く短い沈黙。いつか、鐘の音はやんでいた。
「降るよ。雨は降る」
「なんでそんなこと言えるの?!」
 食い下がったのは悔しかったからだ。同じように不安を抱いているはずの沙知が、何故これほど穏やかなのか、それがわからなかった。
「んー……。あの人のことはね、よくわからないんだ、私も」
 母親のことを、あの人と称して、沙知は言った。抱いてくれたことも名前を呼ぶこともしてくれなかった彼女を、他になんと呼べばいいのか、有希にもわからない。
「でもほら、亜衣花おばさまのことは信用してるの、私。魔法使いの集落で占い師としてやっていけるのよ? おばさまの『見る』力は、ずば抜けてると、思うの」
 雨は降る。その根拠をそんなふうに言って、沙知は有希に笑いかけた。
「でも、そんなの。身内のことなんて、見えなくなるものでしょう? おばさんとあの人だって、この集落で再会するまで、十年以上会ってなかったっていうじゃない。その間になにがあったかなんてわかんないよ。わかんないじゃない!」
 思わず体を起こして叫んだ。
 鐘は止んだのに。空は青いまま。宣告の時を待つようで、有希は怖い。
「ねえ、だって! 私たち、名前ももらえなかったのに! 二人で生まれたのに、私たちに与えられた名前なんてひとつだったじゃない! 最初の魔法すらもらえなかったのに、ねえ、あのひとが魔法使いだったなんてどうして思えるの?」
 抱かれることも、名前を呼ばれることもなかった。眠っている彼女を、母親だといわれ続けたけれど、彼女の瞳の色さえ自分たちは知らない。魔法使いなら最初に与えられるはずの、名前という魔法すら、自分たちには与えられなかった。彼女は自分の娘が、双子であると知らず眠りについた。
 二人の名まえは、亜衣花が聞き取ったのだという。風に乗って届いたその声は菜摘のものであったと、そう二人に教えた。二人に与えられた名前。   けれどそれはひとつしかなかった。
 はじめから自分たちは不完全なのだ。魔法使いは生まれたときから魔法使いであるはずなのに、そして魔法使いはふたつめの名前を持つはずなのに、自分たちにはひとつしか名前がない。なんて中途半端なのだろう。思うたびに有希は、足元がぐらつく気がするのだ。
 自分たちは、本当に魔法使いなのか。ここにいていいのか。魔法使いの村に。けれど他に行くアテなどなくて。
「名前なら、もらったじゃない」
「ふたりでひとつね! 自分が産んだ子供の数すら、わからない魔法使いなんて…!」
 それ以上言えば嗚咽が零れそうで、有希は唇を噛んだ。言っても詮無いことだとわかっている。どちらにしても明日の朝には結論が出ているはずのことなら、ただ今は信じても構わないはずなのに、そんな希望をよすがにするには、15年は長すぎた。待って、待って、けれど目覚めなかった母親を、送る鐘さえもう鳴らない。
「もらったよ、名前。ねえ、だって私たち、二人いたじゃない」
「……サチ?」
「母親なんていないも同然だったよね、だけど私、ずっと……しあわせだったの」
 強い瞳が、有希を見る。毎朝鏡で見るのと同じ色の瞳。けれど違う光が、有希を見ている。
「一人だったら寂しかった。怖かったかもしれない。でもね、私にはユキがいたから、一人じゃなかったから、信じられるの。ねえ、幸、って。私たちの名前でしょう?」
 母親が、一番初めに子供に与える祈りの言葉。それが名前だというのなら、それには裏切られなかった。二人でいること、それ自体が、きっと証。  幸と、たった一文字与えられた、その願いが叶っているから、それは本物。
「ユキがいてくれたから私は幸せだったの」
「サチ……」
「ひとりじゃなかったから、幸せだったから。ねえ、魔法は叶ってるって。そう思っちゃいけない?」
「………」
 唇を噛み締めたけれど、結局涙は落ちた。すがるように抱きしめてくる沙知を、同じ強さで抱きしめて、有希は頷く。何度も何度も。
「帰ろう、ユキ。雨は降るよ、降るから」
 涙交じりの沙知の声に、素直に頷くことができた。立ち上がり、涙を拭けば照れくさくて、二人で笑った。そうして、もう母親のいない家へ戻る道すがら、振り返れば大樹の向こうの空は相変わらず青く澄んでいたけれど。
 それを揺らす風は湿り気をはらんで、遠雷を呼んでいると、そう思えた。
041118
突発性競作企画第9弾「Real Magician」に参加。
オリジナルでこういうお題を持って書くというのがすごく珍しい体験で、面白かったです。
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